国際的ネットワークで女性の留学と高等教育を実現した津田梅子

高橋 裕子 TAKAHASHI Yuko
津田塾大学 学長

小平キャンパスにて開催されている公開講座「総合」。2019年5月23日(木)には、本学の高橋裕子学長が「『大海』をわたった、津田梅子のあゆみ」というテーマで講演を行いました。高橋学長は「井の中の私、大海を知る~先人たちも、もがいて成長した~」という2019年の「総合」講座のテーマに関連付けながら、2度のアメリカ留学を経て本学の前身である女子英学塾を創立し、さらに後継者の育成にも邁進した津田梅子の半生を語りました。折しも4月9日(火)に財務省より新紙幣の五千円券の肖像画に津田梅子を採用したという発表があった直後の講演となりました。津田梅子の研究者でもある高橋学長のお話は女性の社会参画とも関わり、これから社会に出ていく学生たちにとって、自分自身の将来とも重なる内容が多かったのではないでしょうか。講演終了後の質疑応答では、講演で語りきれなかった津田梅子と女性たちの交流にも言及がありました。

高橋 裕子学長講演ダイジェスト動画(講演内容の詳細は下記テキストをご覧ください)

【高橋 裕子学長講演詳細】

現代の生き方に通じる津田梅子の足跡

1871年12月、横浜を出港した欧米視察の「岩倉使節団」一行の中に幼い少女の姿がありました。後に津田塾大学の前身となる女子英学塾を創設した津田梅子は、わずか6歳で親元を離れ、アメリカにわたったのです。今年の「総合」講座のテーマを津田梅子の観点から考えますと、「井の中」とは、日本であり東京であり、家族の中でした。自分の全てが守られ安心できるコンフォートゾーン(居心地のよい空間)から抜け出すことが「大海を知る」という意味になると思います。「井の中」から離れ、「大海」をわたった津田梅子は、女子教育に熱き思いを傾けるようになりました。
女子教育の先駆者と評される津田梅子はまた、明治における女性の「起業家」でもありました。それも国際的なネットワークを駆使して、後進の女性たちのための新事業を成し遂げました。最近は、盛んにグローバリゼーションが言われますが、現在から19世紀末を振り返って聴いていただくと、津田梅子の足跡にいかに現代性があったかがよく分かると思います。

 

自らの後継者となる女性リーダーを育てる

津田梅子は1871年、日本初の官費による女性の留学生として海を渡り、11年間をアメリカで過ごします。留学した5名の中で山川捨松・永井繁子と津田梅子の3名はトリオと呼ばれ生涯支え合いました。
しかし帰国後の津田梅子は日米の文化の差と言語の壁に常に折り合いをつけねばならず、とても困っていました。そこで、状況を変え、留学の成果を反映させるために、独自に海を渡って大学に行こうと思いたちます。教鞭を執っていた華族女学校から休暇をもらって、1889年からブリンマー大学で3年間、生物学を学びました。理系分野を究める女性が理解されない時代でしたが、だからこそ女性にも学問をする力量があることを立証したかったのだと考えられます。そして、ブリンマー大学で研鑽を積んだ経験を同胞の女性たちと分かち合いたいと思うようになり、8千ドルを集めればその利子で4年に一人の日本人女性が留学できると考えました。今で言うファンドレイジングのために、スピーチを行い、各方面に文章を送って、日本女性の留学のためのファンドを募りました。
津田梅子のこの行動は、女子英学塾を創設する前から、女性リーダーの育成に、いかに真剣であったかを伝えています。津田梅子は、2回目の留学生活のなかで人づくりを開始し、自分の後継者を生み出す仕組みを作っていたのです。
このときのファンドで創設された「日本女性米国奨学金」は、1976年まで継続して25名の奨学生に留学への道を切り開くことを可能にし、優れたリーダーシップを発揮する後進の女性たちを育てました。私は第11代目の学長ですが、そのうちの10名が女性で、このような学校は、大変稀有です。それはあの当時、外国で大学教育を受けられる仕組みで日本の女性たちを支援することを考えた津田梅子の意思が生きているからです。そうした足跡を経て、女子英学塾の創立にたどり着くわけです。

 

女性たちの力が結集したプロジェクト

1900年の女子英学塾開校式の式辞は「津田梅子文書」に収められていますが、その最後によく引用する言葉があります。
「婦人らしい婦人であって十分知識も得られましょうし、男子の学び得る程度の実力を養う事もできましょう。そこまで皆様をお導きしたいというのが、私共の心からの願いであります」。
この当時の女性は、大学教育はもちろん帝国大学への入学も許されていませんでした。そういう状況の中で女性も男性と同じように学問をする力量があると述べたことはとても重要です。当時は男女共同参画という言葉はありませんでしたが、その先駆けとなる思想を津田梅子はもっていたのです。
津田梅子を動かした力の一つは、アメリカの家庭で育まれた “self-esteem (自尊心)”。自分に期待し、自分を信じ、女性の力の信じること。それが培われていたからこそ、次の一歩を踏み出せるパイオニアとなれたのです。もう一つは、2回目のブリンマー大学への留学で培われたネットワーキング力。津田梅子は1899年から約1年間、万国婦人倶楽部連合大会に招かれ欧米を旅しますが、ここでもヨーク大司教やナイチンゲールなど、社会にインパクトを与える人物と出会います。また、女子英学塾では1904年に社団法人の設立登記をしたとき、申請人は大山捨松と津田梅子の連名でした。捨松は1919年に命を落とす直前まで理事であり続け、初代同窓会長も務めました。さらに友人のアリス・ベーコンが来日して女子英学塾で教えるなど、国境を越えた双方向の活動が展開されます。このように、津田梅子が行った一連の活動は、女性たちの力を結集した女性たちのプロジェクトでもあったと言えます。それが2020年に120年を迎える本学の基盤をつくったのです。だからこそ津田塾大学は、19世紀から女性の社会参画を加速してきた大学だと言えるのだと思います。

 

津田梅子のバトンを受け継ぐ

最後に改めて「井の中の私、大海を知る」というテーマとの関連でお話しますと、津田梅子にとって、大海を渡る経験は自分の馴染みのない文化を理解して吸収する側面がありました。そして何よりも自分の慣れ親しんだ「井の中」から外に出ることで自分を変化させ、成長させ、自らの力量を拡大させた。それが津田梅子の旅の意味だったと思います。コンフォートゾーンから外に出て大海を知る道は、決して平坦ではなかったものの、ついには自分が望んだプロジェクトを成し遂げました。
津田塾大学は、「変革を担う、女性であること」をモットーに謳っており、英語では"Empowering women since 1900:Tsuda"。1900年から女性に勇気を与え続けてきたしてきたと謳っています。皆さんお一人おひとりが津田梅子のバトンを受け継いでいる、そういう人なのだということを自覚していただきたいと思います。